品川から新橋に向かう電車に乗っていると、
途中、田町のあたりで車窓の右手に面白い光景が見えた。
平日の朝早い時間に、たくさんのサラリーマンが
人間の背の高さよりはるかに高い柵で囲まれた狭い狭いスペースに
ギュウギュウギュウづめい入っている光景。
柵はコの字型に囲われていて柵がないあいている部分が、
ちょうど線路に面しているから丸見えになっている。
なんだろと目をやるとタバコを吸うための
喫煙所だった。
・・・
結局、ニオイが体にあわなくてやめたけれど、
私も20代の頃、一時期タバコを吸って経験がある。
だから吸いたくなる人の気持ちもわかる。
まるでミツバチのように小さな喫煙所に
集まっている人たちの姿を見ると、
いまの時代、喫煙者はまるで犯罪者のような扱いで
気の毒のような気もする。
うまく住み分けができるといいのにと思うけれど、
喫煙者には肩身が狭い時代であることは間違いない。
たしかに、喫煙所に群がる人の姿は
ミツバチの巣を彷彿させる。
でも、時代の風潮に合わせざるを得ない
一人一人という視点で見ると「カゴの中の鳥」にも見えた。
そこで思った。
「カゴの中の鳥は幸せだろうか?」
意外と思われるかもしれないけれど、
すぐに湧き上がってきた私の答えはこうだった。
「カゴの中の鳥はきっと幸せだ」。
ただし条件がある。
「カゴの中しか知らない鳥は幸せ」
でも
「カゴの外を知っているカゴの中の鳥は不幸に違いない」。
ちょっと大きな話になってしまうけれど、
「幸せ」とは何かと考えてみると、
それは「比較」だということに気が付いた。
他人と自分を比べたり、過去の自分と比べたり。
比べることなくして、
幸せを感じることができない自分がいる。
外の世界を知らない鳥は、自分と誰かを比べない。
比べないから不幸にもならない。
何も不幸を感じないという意味で幸せともいえる。
でも、違う世界を知っている鳥はちがう。
あとからカゴに押し込められたなら、
きっと不幸にちがない。
・・・ということは、
残念だけれど、世界中の人々全員が
幸せになる日は一生来ないことになってしまう。
全員が幸せだと、比較することができないから・・・。
そう思うと少し寂しくなり、
私の推論が間違っていることを願った。
・・・
通り過ぎていく喫煙所の中の人たちを横まで見ながら、
あの人たちは今、喜びを感じているのか?
それとも、肩身が狭くなった憂いを感じているか?
(あるいは両方か?)
ちょっと興味がわいた。
自分を含めて、幸せを外に探しに行く人は多い。
けれども、それは誰かと比較して得られる幸せ探しだし
誰かと比較して幸せを得ながら同時に、
不幸も同じだけ(かそれ以上)増やしている
自分もいるような気がした。
そう思うと、カゴの中しかしらない鳥の人生を
全否定できない気がする。
カゴの中にいても誰かと自分を比べることさえしなければ
幸せはいつどこにいても感じることができるに違いない。
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