中学1年生になったばかりの娘は
思春期で口数が少ない。。
そんな娘でも唯一必ず私に報告してくることがあります。
「絵」についての話。
娘はイラストレータになりたいというほど
絵を描くのが大好き。
・・・
先日、自宅のリビングで夜くつろいでいたとき
同じ部屋にいた中学1年生の娘が珍しく話しかけてきた。
「来週行く全校遠足のしおりの表紙になった」
と。
1年生は200人ちょっと。
そのみんながいく全校遠足のしおりの表紙の絵に、
娘が描いた絵が採用されたのでした。
そう言って差し出された絵を見てみると、
書かれている複数の人には自然な表情と動きがあり、
何かを見て描いたのではない(という)
花はのびのびと咲いている。
親のひいき目を差し引いてみても、
なかなか、まねができないレベル。
・・・
娘の絵好きは2歳くらいからすでには始まっていました。
以来、おもちゃはたくさん買わなくても、
絵や創作の道具は、少々高価でも将来への投資と、
目をつむって買い与え続けています。
娘の絵の才能のことは昔から認めるところ。
一方、娘について認めていないこともあります。
たとえば、
・床をいつも散らかしていること
・ソファーの上で毎日寝てしまうこと
その話になるといつもケンカになります。
親との関係、子との関係、
パートナーとの関係、上司との関係…。
・・・
人間関係をよくしたいとは、誰もが思うことでしょう。
でも「人間関係」とはそもそも何なのでしょうか?
「人間関係」という一つのものがあって、
それを改善しようとしているのでしょうか?
個人的には違うと思っています。
「人間関係は一つじゃない。たくさん」
認められる部分と認められない部分という
部品がたぶん100万個くらいあって、
ある部分は認められるけどある部分は認められない・・・
という風になっているんだろうと。
あるいは、あるときは認められるけれど、
あるときは認められない。
そんなことを秒単位でグルグル
くり返しているのではなでしょうか。
人間関係は細かい部品の集まりでしかないなと。
認められる部分のトータルを増やしていって、
半分より多く認められたら「いい関係ができた」
としてもいいのでしょうけれども、
そんな相対的な量で見るのも何か違和感があります。
別にトータルの数を増やす必要もなくて、
部分的ににちゃんと認めているものがあれば、
「その部分はいい関係」といい方でいい気がしています。
私は、全体としていい関係を目指そうとすると
それをできそうにない自分を感じてしまい、
果てしなく大きな課題に思えて気が遠くなってしまうのです。
そしてついには、
「私は娘といい関係を作れるのだろうか???」と
いい関係になることをあきらめてしまいたくなります。
そうではなくて、
「この部分はいい関係。この部分は悪い関係」
でいいのではないかと。
すべてを愛せなくても、愛せる部分と愛せない部分がある。
そう思えることで、全部を愛し切れていない
自分の未熟ささえも許せる気がするのです。
【この言葉を自分に言ってみよう!】
「いい人間関係と決まったものはどこにもない」
これをお読みいただいているあなたにとって、
いい人間関係とはどんなものでしょうか?
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※岩松の個人的な趣味です
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