どっちでもいい



「しっぺ返し」という言葉があるが、悪いことをするとあとになってから自分に返ってくるということはある、そんな出来事があった。

最近、娘の流行りは、

友達たちと自宅で遊ぶこと。

リビングでゲームをしたり、

ウサギと遊んでいる。

妻はリビングに子どもたちを

入れるのを好まないけれど、私は違う。

どこで何をしているかわからないのに比べたら

家でみんなで遊んでくれた方が断然安心。

娘がひとりぼっちでないことも、

いじめられてもいないことも

確認できるのだから、むしろありがたい。

部屋はいつも汚いのだから、

人が来た時だけ、隠しても仕方がない。

ありのままでいい。

私は自宅遊び推進派。

・・・

ただ一つ気を使うのは、部屋の出入り。

自宅仕事の日は書斎にいることが多い。

でも、飲み物をとりに行ったりするときに

どうしてもキッチンに行くためにリビングを通る。

みんなで遊んでいる中に行くのは、

なんとなく雰囲気に水を差しそうで

申し訳ないとおも思うが、

自宅でそこまで気を使う必要もない。

「一瞬なんだから、雰囲気も悪くなればいい」

と開き直り堂々と、娘たちがいるリビングに入る。

ある日、飲み水をとりにきて

リビングから出ようとしたときのこと。

娘にこういった。

「お父さん、そろそろ出かけるから、家出るならカギしめといて」

必要な業務連絡。

すると娘はこういった。

「あっそう」。

友達たちはその言葉に微妙に笑っていた。

そのそっけない、そして失礼な言葉を聞いたとき、

ある日の出来事を思い出した。

その出来事は、私が小学校3年生のときのことだった。

・・・

当時、クラスメイトの間で

「お誕生日会」をやるのが流行っていた。

みんなで一つ誕生日プレゼントを用意して、

誕生日の人の家に行き、パーディーをやって遊んだ。

子どもは遊ぶだけでよいが、

母親は料理の準備などをしなければならない。

でも子どもの私には、そんなことに

気を遣う余裕などまだなかった。

私の誕生会の日のこと、

しばらく飲み食いして、遊んで、

そのうちにみんなで、別の友達のうちに

遊びに行こうという話になった。

そうと決まればといことで、

みんな靴を履き、いっせいに私の家を出て行く。

私も出て行こうとした。

するとその時、母から何か一言声をかけられた。

正確に覚えていないが、おそらく

「夕方までには帰ってくるように」

的なありふれた言葉だったと思う。

でも、そのありふれた言葉に対して、

自分の誕生会で舞い上がったうえに、

みんなの前で母と話しているところを

見られるのがない年頃だった私は、

照れ隠しもあってこう答えてしまった。

「うるせぇ、クソババア!」

みんなは笑っていた。

子どもだったとはいえ

誕生会の準備をしてくれた母に向かって、

気遣いもなく汚い言葉を投げかけて、

そのまま走り去っていった。

そんなことはすっかり忘れて夕方帰宅したら、

待ち構えていた母から

「なにがクソババアなの!(怒)」

とこっぴどく怒られた(笑)。

・・・

娘から「あっそう」と言われたとき、

その時の場面がフラッシュバックした。

そしてこう思った

「自分もむかし似たことしてたんだから、言われても仕方がないか」

と。

自分も親になり、親の立場も

それなりにわかるようになってきた。

私もこう見えて、意外と娘に良いように、

いろいろ気は使っているほうだろう。

「あっそう」といわれると、

そのすべてを無価値であるように

否定された気分にもなる。

でも、実際はそうではない。

娘は、父親と話しているところを

友達に見られたくない年頃なだけ。

親の立場もわかる。

恥ずかしがる、子供の立場もわかる。

いまの私は「親」だから、

親の立場でむかし母が私に怒ったように、

「なんだその言い方は!」

と怒っても差し支えはないかもしれない。

でも、私はあえて何も言わず、

部屋を出て行く道を選んだ。

「自分もむかし失礼なこと言ったことあるから、言われても仕方ないよね」

「親とは話したくない年頃か」

この2つのことを思いながら、

「うまくできなかった過去の自分」

の方に寄りそうことにした。

・・・

怒らなかった理由は、もう一つある。

いま目の前にいる娘を怒ることは、

うまく母の気持ちを察することができなかった、

昔の自分を責めるのと同じことだった。

娘を責めながら、過去の自分を責めたくはない。

娘を責めないことは、過去の自分に

寄りそうことでもあった。

だから怒らないことは、自分の為だった。

そう思えると我慢ではなく、

喜んで「怒らない道」を選んだ。

・・・

そして、それから数日して、

もう一つ思ったことがある。

「別にあのとき怒ってもよかったんだな、きっと」。

私はあの時、心ない言葉に

確かにいくらか傷ついた。

誰かが傷ついたことを知るのは、

娘にとって悪いことではない。

もしあの時、怒っていたらなら、

その記憶はいくらか娘の中にも残っただろう。

娘が年を重ねていき、

親の気持ちがわかった時に、

今の私のように当時を思い出して、

反省するのも、人の成長としては悪くない。

つまり私は、怒っても、怒らなくても

何も失うことなど、はじめからなかった

ことに気がついた。

私は怒らなくても幸せになれるし、

怒っても幸せになれる。

何をしてもしなくても、

幸せになれるなんて、なんて素敵なことだろう。

そのことに気がついたら嬉しくなった。

「別にどっちでもいいか!」

と、楽観的な気分になれた。

【この言葉を自分に言ってみよう!】

「どっちでもいい」

これこそが、ありのままを認める

幸せということなのかもしれない。

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