あせった時ほど人は

いいことをしているつもりが、まったくいいことになっていない。

そんな残念なことも、人生には起こりえる。

・・・

駅の改札を出たところに、人が座っている。

50代後半の男性。

すでに駅員が2人到着して様子を見ていた。

話しかけているけれど、

意識もうろう、返事がない。

少し首を動かすだけ。

その様子を見て、さらに

駅員が話しかける。

「大丈夫ですか!」

「聞こえますか!」

「ご家族連絡しますか!」

その様子をみながら思った。

「具合が悪い人に、かける言葉じゃないだろう・・・」。

・・・

人はあせったときによく多弁になる。

上手にコミュニケーションを

とりたい一心なのはわかる。

でも、

たくさん話しかければ、かけるほど、

かえって相手の心は遠ざかってしまった。

・・・そんな経験はないでしょうか???

「前のめりに来られすぎると引く」

「追われると逃げる」

それが人の心でしょう。

駅員はあきらかに焦っていた。

焦れば焦るほど多弁になっていった。

でも、多弁は自己防衛のための

詭弁(きべん)でしかない。

平静を保ちたいのはわかるが、

外から見て、こんな滑稽な姿はない。

でも、その役に立たない行動に

本人が気づくのはムズカシイ。

「一生懸命だった」

と言えばその通り。

でも、

人は一生懸命に意味のないこと

をしたりする。

(あるいは逆効果のこと)

では、なぜ慌てるのか?

もちろん、

自分には対処しにくいことを

しているのだから慌てるのは当然。

でも慌てざるを得ない根っこには、

無力で、約立たずの自分を

受け入れられないということがある。

「私は役に立つ人間でなければならない」。

本当はたいして何もできないのに、

そう無理に思い込もうとするから、焦る。

つまり、自分の実力を越えた人間に

なろうとしたときに人は焦る。

・・・

もちろん、男性の意識の有無の

確認くらいは必要だろう。

でも、意識がないと分かっている人に、

さらに話しかける意味はない。

あのとき救急車が来るまでの間できたことは、

見守り寄り添うしかなかった。

何もできない自分では情けないと思うから

「なにかしないと」

と焦り、病人に無理にでも話させようとする。

つまり・・・

言い方はよくないけれどストレートに言うと、

病人に自分の無力感の

責任をとらせようとするということ。

それでも人は自分の行為を

「一生懸命だった」

「相手のことを思ってやった」

と言い張る。

「親切心でやったのだから、すべては正しかったのだ」

と。

でも実際は、自分の感情の責任を

なすりつけているだけなのに、

いつでも自分は善人でいたかったりする。

それほど人は、自分の無力を認めるのが怖い。

自分の感情を他人に投影(投射)

していることに気付くのは、

なかなか大変。

駅員が悪人だなんて思わない。

きっといい人なのだろう。

でも、残念だけれど、

人の為にやっているつもりのことが

実は相手のためには、

まったくなっていないということもある。

【この言葉を自分に言ってみよう!】

「親切であっても、それが正しいとは限らない」

「何かしてあげなければいけない」

という呪縛を解いて、

何もできない自分を受け入れよう。

余計なことをしないでいるのも

十分支援として価値がある。

何もせず、そばにいるしか

できないこともあるのだから・・・。

これは、

すべての人間関係に通じます。

<お知らせ>

自分の心をごまかしながら、

相手の心をちゃんと受け止めることはできません。

自分を知り、相手を知る

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