今日はちょっと重いテーマですが、
興味がある方は読んでみてください。
「家族が自死すると、何がつらいと思いますか?」
人により違うでしょうけれども、
ある人の話を聴いて
「そんなひどいことがあるのか」
と驚きました。
・・・
少し前に、
知人の成人したお子さんが
自死しました。
私も知っている子だったので、
言葉では言い表せない無念を感じます。
でも、
知人である親御さんは、
長い間、真剣に子どもに向き合い、
全力で止めようとしていました。
当事者しか理解できないでしょうけれども、
子も親御さんに濁りなく感謝をしていました。
理屈で考えてもわからないことですが、
凡人の私たちには到底理解できない、
ある種特殊な死生観の持ち主でした。
親御さんは長きにわたり、
「出来ることはもう、これ以上想像できない」
と、もうやるすべがないところまで
やりつくしていました。
凡人が思いつく以上のことを
既にやりつくした末のことですから、
自死したときには、その現実を
受け入れるしかないのでした。
・・・
ところが、人間というのは怖いもので、
「自分に理解できない」
「自分が受け入れらない」
と思うと、
他人を責め始めたりするのです。
ここからが本題です。
・・・・
親御さんに直接会って聴いた話の中で、
一番、驚いたのが、
「子どもが自死をして、何が一番つらいか」
という話です。
あなたは、家族が自死された方にとって、
何が一番つらいと思いますか???
「助けてあげられなかった無力感?」。
「取り残された孤独?」。
それもあるかもしれません。
人や状況により異なるでしょう。
人それぞれ違うでしょうが、
その知人が言った、一番つらかったことは
衝撃的でした。
自死遺族をつらくさせた、その衝撃な一言とは
・
・
「知人からの親切」
・
・
だそうです。
どういうことかと言いますと、
前述のとおり、その方は、
希死念慮があるお子さんにずっと寄りそい、
必死に止めようと努力をしていました。
病院、警察、その他もろもろ相談機関・・・、
ありとあらゆる手を尽くしました。
まわった医療機関の数も、
一つや二つではありません。
それでも「お手上げ」だったのです。
相談した先すべてから、
お手上げにされたのです。
にもかかわらず、
子どもが亡くなった直後から
こんなことを知人たちから
言われるようになったそうです。
・「何でもっと早く、気付かなかったんだ!」
(→気づいてたって)
・「何でもっと、本気で止めなかったんだ!」
(→本気でずっとやってたって)
・「もっとできることがあっただろう!」
(→何が出来たの?)
・「私にもっと早く相談してくれたら、絶対に死なせはしなかったのに!」
(→あなたに止められるわけがない)
一番ツライ親御さんに向かって、
「親切で」「気になって」という体裁で
周囲の他人が「責めてくる」のだそうです。
そういう親切を装って
(本人は親切と信じている)
「隣人の死を聴き、驚いてしまった自分の感情の処理が自分で出来ない人たち」
がよってたかって、
一番つらい本人に、詰め寄り、
声にならない声で、
「私を納得させろ!」
「私が驚いた責任をお前がとれ!」
と責めてくるのです。
これを
「親切という名の暴力」
といわずして、
なんというのでしょうか?
つらい人は助けてあげるべきなのに、
つらい人を捕まえて
親切の顔をしてさらに傷つけるとは・・・。
何も知らない人、
何もしてない人、
何もできない人に限って、
感情的に口ばかりよく動く・・・。
残された人の苦しみを1mmでも
わかろうという人は
いないのかと愕然とします。
<仮面の親切からよく出てくる言葉>
「なんで、もっと・・・・」
「理由は?」
「原因は?」
「どうしてそんなことになったの?」
「もっとできたでしょ?」
「言ってくれれば」
「いい●●を知ってたのに」
「アレはしたの?コレはしたの?」・・・
一番つらい人に、責任をなすりつける。
最悪ですね。
【この言葉を自分に言ってみよう!】
「悲劇は、親切の顔をしてやってくる」
自分がつらいと、人を責める。
これは悲しいことですが、
特別な人だけがすることではありません。
誰でも無意識にしてしまうことなんですね。
たとえば・・・
現にいま私は、
私を「ツラく」した人たちに向かって、
こうやってBLOGを書きながら
責めているのであります。
親切という仮面をかぶって
相手を責め、追い詰めていないか、
お互い見直してみましょう。
・・・
明日は同じテーマについて、
「悲しみを強要してくる人たち」
について、書きたいと思います。
興味ある方はお読みください。
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