いつもありがとうございます。
名古屋で太り、東京でやせることを決意した、岩松正史です。
早朝、出張先の街を歩いていた。
向こうから20代前半の女性が
こちらに向かって走ってきた。
女性は私とは、すれ違わずに
私の前にあるビルの
地下階段を急いで降りて行った。
女性が駆け込んだビルを見た。
専門学校だけが入っているビルだった。
腕時計に目をやると、
9時5分。
この「9時を、5分過ぎている」という
中途半端な時間が、
私の中の想像力をかきたてた。
「女性は専門学校生で、9時開始の授業に遅刻したのかも」
勝手に相手の境遇を妄想し始めた。
でも、本当のことはわからない。
「一棟借りに見えたあのビルに、本当に専門学校だけしか入っていないかわからない。」
「あの女性がそこの学生かどうかもわからない。」
「そもそも学生がもわからない。」
「9時から授業があるかわからない。」
「走っていたけれど、本当に急いでいたのかわからない(趣味で走っていただけかも)」
いろいろわからないことだらけなのに、
人は、自分の中の狭い想像力で思いついた
結論の中に正解を求めたがる。
「ああカモ」
「こうカモ」
と、自分の中で、
大空のように広い想像力を
働かせているつもりでも、
本当は、1羽がようやく入れる
狭い鳥カゴ程度の狭さの中で
考えているだけなのに、
それに気づくことはできない。
井の中の蛙。
カゴの中の鳥。
・・・
なぜ人は、相手がいる世界は
自分の想像をはるかに
超えていることに興味は示さないのだろう。
自分の理解できる想像の世界に
相手を当てはめて、
引きずり込もうとするのだろう。
きっと、
「カモ」は当たると面白いからかもしれない。
想像したことが当たるのは、
ゲームに勝つのに似ている。
知らない世界を知ってもゲームには勝てない。
でも、想像して当てるゲームをしていれば
カモが当たるのはきっと面白いしうれしい。
その快感が欲しくて、
当てて理解したがるのかもしれない。
「要するに~なんですね」
と、自分の解釈でいいたがる人も同じ。
自分の解釈が正しかったことを確認し、
自分の正しさを喜びたい。
でも、
当てっこゲームに勝って、
自己肯定感をあげることと、
相手を理解することとは、
まったく無関係なこと。
そんなことよりも、
わからないことはわからないと理解する。
想像して分析的に理解しようとしている
自分が今ここにいるとに気づくこと。
それこそが本当の理解したということ。
「カモ」はいくらたくさん集めても正解にはならない。
でも人は「カモ」を5個くらい集めると、
「そうに違いない」
と決めつけしまうからおそろしい。
「カモ」は100万個集めても「カモ」のまま。
みにくいアヒルの子のように、
白鳥に変身はしない。
(もともとあれは白鳥の子だったのだけれど・・・)
想像、妄想、推測するのは自由。
でも、それを
「きっとそうに違いない」
と決めつけに使ってはいけない。
「カモ」には注意が必要。
【この言葉を自分に言ってみよう!】
「わかるのではなく、当てたくなっていないか?」
そう言いながら、
いま私は「かも、かも」いって、
他人の心理を当てたがっていることに気が付いた。
やっぱり当てっこは楽しい。
だからついしてしまうのだと確信した。
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