夏の暑い日の朝。
出かけようと家を出たら、ものすごい大きな音でセミが鳴いていた。
「夏だなぁ・・・」
夏生まれで夏好きなのでうれしかった。
でも、そこでふと思い立った。
「きのうはセミ鳴いていたかな???」
きのうも似たような天気だったはずなのに、どうだったのかまったく思い出せない。
鳴いていなかったかも?
鳴いていたけれど、気にしていなかっただけかも?
思い出すことができない。
でも、今日これだけ大きな音で鳴いているのだからきのうも鳴いていた可能性は否定できなかった。
あとの祭り。
もう確認することはできない。
・・・
家の中で探し物を一生懸命していたら、実は探し物が目の前にあった、
そんな経験はあるでしょうか???
先日「テレビのリモコンがない」と子どもたちを巻き込んで騒いでいたら、
結局、自分の左手に持っていました(汗)。
「目の前にあるのだから、すぐ見つかるはず」
というのは間違いです。
目の前にあってもそれを意識しようとしなければ、脳はとらえることができないのです。
網膜にビジュアルとして「映っている」ことと、それがあると「認識できている」ことは
まったく無関係であることがわかっています。
聴くことも同じですね。
耳から入ってきた声が音として「聞こえている」ということと、それを
「認識できている」ことは、まったく別のことです。
話しかけられていたのに、心ここにあらずで、何を言われているのか
記憶にないという経験は誰でもあるでしょう。
聴くように脳が意識を向けたものだけが、認識できます。
・・・
では、きのうは聴こえなかったセミの鳴き声が、なぜ今日は聴こえたのでしょうか?
べつに意識してセミの声を聴こうとしたわけでもないのに・・・。
理由は2つあります。
一つは、セミが私の意識を一発で呼び覚ますくらい、強烈な大きさで鳴いていたこと。
強い刺激により、意識が強制的に向けられたということです。
もう一つは、きのうは時間に遅れそうで慌てて家を出たから、
セミにかまっている余裕がなかったこと。
もしかしたら鳴き声の大きさはきのうも、今日も同じだったかもしれません。
鳴き声の大きさは相手に依存することだから、こちらでどうすることもできません。
でも、聴く余裕の有無はどうでしょうか??
自分のことばかり考えていて、ちゃんと聴こうとする余裕がないことはよくある気がします。
あるいは、自分がききたい部分部分だけよく聞いて、相手の訴えたい大事な部分はは
聞き流してスルーしたり・・・。
もしかしたら、きのうも同じ大きさで鳴いていたセミの鳴き声を、ただ自分が
聞き逃しただけかもしれない自分かもしれません。
なんだかそんな気がして、自分のことばかりで日々精いっぱいであることを少し反省したのでした。
時には立ち止まって相手の発信を、聴きとれるくらいの余裕は持っている人間でいたいものです。
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自分のことを考えず。
相手のことも考えず。
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