面白いことに、「自分は記憶力悪い」と訴えている人の多くは、記憶力が悪くないことがほとんどです。
記憶力ではなく、別のあるものが悪いから、記憶できないだけだったりします。
おとといから記憶法の講座を、大阪で開催していました。
たくさんの方が来ていただきありがとうございます。
私は主に傾聴と記憶法の2つの講座の講師をしていますが、傾聴の講座以前受講いただいた方の中から「岩松さんは、記憶法の講座の時は傾聴の時と違い、ちょっと怖い」といわれることがあります。
自分でも、そうだろうなと思います(笑)。
なぜなら、傾聴と記憶法では、伝え方を変えているからです。
どのように変えているかといいますと、記憶法では、一挙手一投足に指示、注意を与えることがあります。
「ペン置いてください」
「椅子をくるっと回して、体をこちら向けてください」
「ここを見てください」
「ノートを閉じてください」
あるいは、何かを禁止する指示も出します。
「このようなやり方をしないでください」
「私が次に開けて明けてくださいというまで、ノート開けないでください」
なぜそのようなことをするかというと、このような指示そのものが記憶力を高めるトレーニングだからです。
・・・
人の脳は、同時に2つのことを完璧に行うことはできません。
2つのことを同時にやれば、単純に集中力は半分になり、そこから得られる成果も半分(あいまい)になります。
たとえば、話だけに集中して聴けば、10の気づきや理解が得られるものも、ノートを書きながら聞いてしまうと、脳が書くことに意識をうばわれた分、頭の中に内容がちゃんと入らなくなります。
なので、前もってペンは持たないで聴いてくださいと伝えてあるのに、無意識にスッとペンをもって書きはじめようとする人には、
「ペンを持たないで下さい。置いて!」
と指示を出します。
そのような指示は、傾聴の時はする必要がないので、傾聴講座の私を知っている人には、その日岩松は機嫌が悪いか、ちょっと怖いと思うのかもしれませんね。
でも実際は、いつでもご機嫌です(笑)。
・・・
辞書によると癖(クセ)とは、「人が無意識のうちに、あるいは特に強く意識することなく行う習慣的な行動」とあります。
そう・・・人には癖があります。
ダメだといわれているのに悪気なく無意識に、ペンともってノートを書き始めてしまったりするのは当然起きることなのです。
なので、別に責める気もありません。
でも講座中、脳の働きを悪くする癖が出たときは、その瞬間に止めてあげないと、その人が得たい成果が得られないので指摘します。
それがとても、記憶力を高めるために大事な事なのです。
自分は記憶力が悪いと思い込んでいる人の多くは、記憶力が悪いのではありません。
一つことに集中しなければいけないときに、それ以外の別のことに考えてしまう癖をもっている人です。
集中力を欠いているため記憶ができなくなっている、集中力がないだけの人だったりします。
でも本人はそのことには気づけません。
自分は記憶力に問題があると思い込んでいます。
不安が強い人というのも記憶力がよくない傾向にあります。
それは、不安な人ほど同時にいろいろ考えすぎしまうから。
目の前のことに全く集中せず、記憶力が悪くなります。
そして、記憶できていない自分にまた不安を覚えて、別の不安を呼び起こし、ますます集中力を欠き、もっと記憶力が落ちていく・・・という悪循環にはまってしまいます。
「気が散る」ことが習慣化されている人は、そういう集中しない癖があると自分では気づくことができません。
でも、記憶法の講座をしていると、一目見てその人の思考の癖がわかるのです。
記憶力が悪いと思っている人には、記憶の仕方を教える以前、気が散って集中できない習慣を直していく訓練が必要というわけです。
そのため、講座中、集中力を欠く癖が無意識に出てきてしまう人に、その場で注意を与えることで、集中でき、記憶できる状態を無意識に作っていきます。
・・・
「あるがままの自分」とは、自分を不幸に導く癖に支配されたまま生きることを、そのまま認めることではないですよね。
癖は変わりにくいものであることを認めつつ、それを責めることなく、でもハッキリと、その人がなりたい姿に近づけるよう伝えることも、ありのままでいたい人を支援することになります。
その時大事なのは、ちゃんと相手がわかるよう理由を説明して納得してもらうこと。
そして、本人が満たされたと感じる結果を、ちゃんと指摘した側が責任をもって与える子とこかなと思います。
それさえできれば指摘も愛であり、責めではないと理解してもらえるでしょう。
指摘する側に、相手を責める気持ちがあったり、説明が足りなかったりするから、パワハラとかいじめとか言われるわけです。
よかれと思って相手にしてあげるだけでは、愛は伝わらないし、それは独りよがりの愛なのです。
逆を言えば、本人が欲しいというものを与えるだけでも、それは愛とは言えません。
記憶力を高めたいという人に対して、記憶のやり方を教えても無駄ということはよくあります。
それは、「集中力の欠如の癖」という問題の本質に本人が気づくことができないため、本当に必要な支援が何か?当人は自覚することができないのです。
私は心理カウンセラーですが、このように人を見る視点は、カウンセリングにそのまま生かしています。
・・・
本人が訴えていることを、直接解決しようとすることが本当に支援になるのか?
欲しいものをただ与えるのは、支援ではなくサービス業。
その訴えをしたくなる裏にある、根本的な問題が解決しなければ支援にはなりません。
特に、心の問題に関わる支援をしたいなら、欲しいといわれても、かえって今このタイミングでは、あげない方がいいということが多々あります。
それを与えてしまうことは支援にならないばかりか、かえって害にしかならないことがあるのです。
「欲しいといわれたからあげたけれど、それで帰って相手を傷つけている」
・・・なんてことになったら悲しいですね。
与えることによって、かえって問題の本質を先延ばしたり、問題の根を深めてしまってはいけません。
本人が欲しいというものを、そのまま与えるだけでは、本当の支援はできないのです。
それを欲しがる欲求の出所が何か?に目を向けましょう。
その時のアプローチ方法は、傾聴でも(記憶法講座のように)認知・行動的なアプローチでも、他の方法でも、何でも構いませ。
状況に合う必要なやり方を支援者自身が自由に選べる能力さえあれば、なんでもいいでしょう。
欲しがっているのを、ただ与えるのはサービス。
欲しがっている人に、本当に必要なものを与えるのが支援。
似ているようで、まったく別のことですね。
あなたは人と接するとき、サービスをしてあげたい人ですか?
それとも、支援をしたい人ですか?
自分が何をしたいかで、人との接し方は変わります。
自己犠牲をしながら相手に合わせていくというのは、悪いサービスの典型ですね。
私は、やっぱり傾聴を伝えるときも、記憶法を伝えるときも、よい支援者でありたいのでそこをこれからも目指します。
<お知らせ>
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■傾聴の参考になる動画
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