汚いものに向き合えた時にこそ
心は本当の意味できれいに洗われていくのかもしれない。
私が卒業した中学はちょっと変わっていて、
建立130年の木造校舎だった。
文化遺産になりそうな建物で
木の床は「ぬか雑巾」で毎日学生が掃除をする。
だから体育館も廊下も、床はいつも
鏡のようにピカピカ光っている。
そんな歴史を感じる建物だった。
(ぬか雑巾知ってますか?)
・・・
朝から汚い話で恐縮ですが、当然トイレも古くて
洋式どころか、水洗でもない。
ドボンと穴に落とすだけのもの。
トイレ全体がコンクリートのむきだしで、
清潔感はないし、正直匂いもキツイ。
息を止めたくなる、そんなトイレだった。
毎日、午後になると清掃の時間がある。
自分の教室も掃除するけれど、
クラスごとに担当する場所が決まっていて、
校内の様々な場所を「班」ごとに掃除しに行く。
私が好きだったのは、一番楽な
保健室の掃除だった。
けれど、中学2年の頃、
わが班はジャンケンに負けて、
全校生徒が最もキラっている(であろう)
トイレを掃除することになってしまった。
あの時の絶望感は忘れない。
汚いし、臭いし。便器も床も雑巾で
手拭きする作業が、正直苦痛で仕方がなかった。
そんな中、なぜか同じ班にいたK君と、
班長のS君の二人は、毎日とても熱心に掃除をしていた。
K君は、便器ブラシの達人で、
汚されてしまった便器をブラシを
使って高速でピカピカに磨くのが得意だった。
S君は剣道部で、力強さとやさしさの
両方を持った好青年だった。
S君はもともといい人なので、
何事も一生懸命やるのは理解できたけれど
私と同じ帰宅部のK君は私同様、
当初トイレ掃除を相当嫌がっていたので
なんで一生懸命やっているのか不思議だった。
K君に
「なんで、そんなに一生懸命掃除するの?」
と訊いたことがある。
すると、K君は言った。
「イヤイヤやっているとつらくなるから、便器磨きに命を懸けて楽しもうと決めた」
体育会系でもない、S君のその言葉を聞いたとき
なんだからいつでも楽をすることばかり考えている、
自分が小さい人間のように思えたのを今でも覚えている。
以来、私をはじめ、他の班のメンバーも、
(と、言ってもあと一人しかいないが)
だんだんと二人に習って、マネをして
自分なりに担当箇所を決めトイレ掃除に
こだわるようになっていった。
すると、しばらくして学校内で
「最近、トイレがとてもきれいだ」
ということが評判になり、
みんなから感謝されるようになった。
・・・
半年ぐらいして、クラス内で
清掃の持ち場を変える時期になった時
わが班は真っ先に手を挙げて、
ふたたびトイレ掃除をすることにした。
その時、班員は誰一人不満に
思っている人はいなかった(たぶん)。
・・・
「汚いものは見たくない」。
これが人間の本性だと思う。
私は、トイレ掃除から逃げたくて仕方なかった。
やることになったあとも、
斜に構えてみているときは、
イヤなままで、本気でやる気にはならなかった。
でも、他の素晴らしい人に
刺激を受けたからこそできたことだけれども、
汚いものに正面から目を向けたら、
本気でキレイにすることが自分にもできた。
あの時の心境をいま思い出してみて思う。
私は汚いトイレを磨いていたようでいて、
汚い自分の心を磨いていたのだと。
トイレがきれいになったのを見て
スッキリいい気持ちがしたのは、
今日一日たまった、自分の心の汚れを
キレイにできた喜びと同じだったに違いない。
・・・
だからみなさん、トイレ掃除をしましょう!
などと言うつもりはない。
私が言いたいことは
汚いものから目をそらしたくなる、
そんな汚い自分まで含めて、
自分の中のイヤな部分に、まず正面からしっかり
「向き合う」ことから始めてはいかがだろうか?
最近、きれいにスマートに生きたがっている
自分に対する、自戒の念を込めて。
汚いものに向き合わないまま、
なくそうとしても出来ない。
汚いものに向き合えた時にこそ
心はきれいに洗われていく。
【この言葉を自分に言ってみよう!】
「嫌なものほど直視する」
傾聴しているはずなのに、
「どうしてもいろいろ自分のことを話したくなってしまう」
という人がいる。
この「なっちゃう」という感覚は
「いけないこと」とだと思っている
証拠ではないだろうか?
いけない感情をいきなりなくそうとしても
なくなりません。
「なぜ言いたくなるのか?」
押さえようとする前にまず、
自分の心の声に耳を傾けてみよう。
欠点はなくそうとするのではなく、
ちゃんと見つめて、向き合うことで、
人の話も聴きやすくなっていきます。
汚い自分も否定しないということですね。
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