日中大雨が降ったあと、夕方、
玄関わきにある書斎で仕事をしていた。
玄関のカギを回す音がする。
小学1年生になった息子が、
学童から帰ってきたようだ。
「たまに家にいるのだから迎えに出よう」
と思った。
朝からずっと自宅仕事のため、
疲れ顔を一回、鏡に向かって笑顔に変えて、
玄関に迎えに出た。
玄関を開けると息子は
・
・
・
泣いていた。
(ひとりで帰ってきたはずなのに、泣いているのはなぜだろう???)
反射的にイジメにでもあったのかと思った。
とりあえず「どうした?」と訊いてみた。
すると、
・息子「折れちゃったぁ~(泣)」
体の部位で「折れる」と表現出来る場所は
指、手・足、そして鼻くらいだろう。
すべての部位をさっと見渡したけれど、
そこは折れてはいないようだった。
つぎの瞬間、息子が差し出して物を見て、
折れたものがわかった。
お気に入りの「傘」。
嗚咽する息子に、どうして折れたのか訊いて見た。
まだまだうまく説明できない年ごろだけれど、
何度か聞きなおしているうちに、
持ち歩いていたら、自然に折れたと分かった。
折れた個所を見たら、金属疲労しているようだった。
息子のいうことは、間違いなさそうだ。
まだ靴も脱がずに玄関に立ちつくし、
ひきつづき嗚咽する息子を、軽く抱きしめてこう言った。
・私「大好きだったの?」
・息子「(うん)」
・「お気に入りだったから、壊れちゃったらイヤだねぇ」
そして息子はうなづいて、こういった。
・息子「捨てなぁい!とっておくぅうぅ~・・・」
一瞬、頭の中に住み着いている「常識的な自分」が、
「新しいの買ってあげるから、捨てようね」
と、言えと指図してきた。
でも、その言葉は軽く無視してこういった。
・私「いいよ、とっておこう。でもまたすぐ雨降る予報だから、新しいのも買いに行こう」
・息子「(うん)同じのがイイぃぃ~・・・(泣)」
・私「そうだね。同じのがイイね。どこで買ったっけ?」
・息子「前過ぎて、わからないぃぃ~・・・(泣)」
私も思い出そうとしたけれど、もう1年以上前のこと。
心当たりはあっても、正確に思いだせない。
・私「うーん。お父さんも思い出せないや。とりあえず同じのか格好いいの探してみよう」
・息子「(うん)。うえ(リビング)に行くぅぅ~」
少し泣きやんだ息子は、折れた傘も持たずに、
2階のリビングに上がっていった。
翌日から出張のため、私は傘を探しに店に行くことはできない。
多分、あの店だっただろうと、心当たりの店も絞り込んだけれど、
おそらく同じ傘はもう手に入らないだろう。
でもそれは心配していない。
泣き切った息子は、きっと別の傘でも
満足するに違いない、と妙な確信を持っている。
この確信はどこから来るか?
・・・
私は泣く息子を一切否定しなかった
「泣くじゃありません!」
「男の子だからそれくらいで泣くな!」
とは言わず、泣きたい気持ちに、
修正をかけようとせずそのまま受け入れた。
「泣きたければ、どうぞ」
勉強をたくさんしたやったら
試験の点数がイイだろうと期待するのと同様に、
否定しなかった分だけ
息子もきっと私のすることを否定しないだろうと思った。
実際はどうなるかわからない。
でも傘を買う日まで、そう期待位してもきっと罰は当たらない。
私は、泣きたい気持ちを尊重できた自分にすでに満足している。
鳴いている息子も愛せた自分にも満足している。
もう2つも満足している。
だからもし、息子がこれから傘について
仮に思うようにならなかったとしても、
それはただのおまけ程度の喜びとして受け取れるだろう。
【この言葉を自分に言ってみよう!】
「私は、自分を責めることをしなければ、子どもを責めることもしない」
最近、私が私に納得できるように
息子を愛せている気がしている。
それはきっと、私が私自身を愛せている加減が
安定しているからのような気がする。
<お知らせ>
他人に向けられるよからぬ感情の矛先は、
実は自分に向けられているものと同じだったりします。
人の話を聴くのがつらい人は、
自分の心の声を聴くのがつらくて出来ない人だったりします。
自分に寄り添い、支え、自分が自分のよき理解者になった分だけ、
他の人にも寄り添い、支え、よき理解者になります。
傾聴1日講座5月23日(水)飯田橋
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■傾聴の参考になる動画
心理学的な傾聴の説明をゆっくり学べます
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諸富祥彦の傾聴のねっこ(動画)
※岩松の個人的な趣味です
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