「白鳥の王子」というアンデルセン童話を子ども向けに短くまとめた本を読んでいました。
王女エリサのもとにやってきた継母は魔女でした。
魔女はエリサを城から追放すると同時に、11人の兄たちの姿を白鳥に変える魔法をかけたのです。
兄たちをもとの姿に戻したいと願うエリサのもとに、女神さまが現れてこういいました。
「兄たちを助けたかったら『いら草』で11人分の服を編んで、兄たちに着させない。正し、服を編みあげるまでは、誰とも口をきいてはいけません。もし口をきけば兄もお前(エリサ)も死んでしまいますよ・・・」
・・・結局エリサは、自身が処刑になる直前ギリギリのタイミングで、いら草の服を11枚編みあげて助かる、というストーリーなのですが、この話を読んで何か違和感があったのでした。
どうして、女神さまは口をきいてしまったらみんな死んでしまうことにしたのでしょうか?
他にも童話の絵本はシリーズでいくつも持っていますが、この手の「親切そうで親切でない救世主」に引っかかることは結構あります。
理由の一つは、そういう設定にしないと、盛り上がらないから!であるのはわかります(笑)。
でも、もう少し深読みしてみると、もっと深い理由もあるのかなと。
童話の構造というのは、いいひとと悪いがいて、最後はハッピーエンドという構造になっているのがシンプルで、子どもウケします。
でも、その裏には意外と「世間の理不尽さ」「厳しさ」を伝えようとしている部分のあるのかもと思えます。
世の中、あきらかな悪人もいるけれど、一見親切そうに見えて、実は根っからの親切ではない人もいる。
あるいは、誰かに親切な人が、みんなに親切だとは限らない。
そんなメッセージ性も感じられます。
(例えば、同シリーズの『長靴をはいた猫』では、猫が、自分がお世話になったご主人様を助けるために、他人の土地で働く農民にウソをつくよう恫喝する場面があります)
お話全体の大きな流れだけ見れば、要するに、悪い出来事といい出来事が交互に続いて、最後はハッピーエンドでおしまい。
でも、そのストーリー展開の節々に着目してみると、いいとも悪いとも言えない、微妙な人間模様が描き出されていたりしますよね。
これは、童話に限らず、日常生活で人と会話するときも同じです。
「要するに」という視点で全体をシンプルに見る視点と、その中にある個別の微細な引っ掛かりに着目することで、相手の言わんとすることへの理解が深まります。
大枠での理解というのは、その先にある個別の微細な部分を理解するための、準備でしかかなったりします。
ところが人間というのは、基本的には細かいことは面倒くさいと感じますし。
自分と他人の考え、価値観が違うと、そこをまず認めようとするよりは、どうして自分と違うのか?相手を理解するという名目のもと、内実は、自分が納得しやすくなるための、合理的な理由、原因探しから始めたくなりがちです。
すると、そこから得られる「理解」というものは、相手をそのまま理解したというよりは、自分が納得するために必要な理解になってしまいます。
話しの中の引っ掛かりは、まずそのまま受け止める。
そして、相手にとっての意味は何かを知ろうとする。
そこにコミュニケーションをとる価値があります。
童話では作者の意図は、それこそ意図的に表現されているので、それを読みほどく面白さがあります。
でも、日常会話の中で展開される意図は、話し手が無意識に発していることが多いのです。
言葉を理解するのではなく、言葉に込められている意図を理解するのは容易ではありません。
まず、解釈、分析せず、二人で確認をとりながら、理解を深めることではじめてコミュニケーションが成り立ちます。
そして「意図」は一つとは限りません。
見方によってさまざまな解釈が出来るのが一般的なので、自分のフィルター(照合枠)で分析してしまうと、一面的な理解にとどまってしまいます。
なので「自分はきっと正しい」ではなく、自分の理解は常に一面的であると、いつでも理解しておくことが大切です。
本で例えるなら、
・問題解決的な聴き方は、「実用書」と同じ。
・コミュニケーションを深める聴き方は「小説」「童話」と同じ。
いい悪いではなく、接し方の違いが分かってくるのでしょう。
コミュニケーションのスタイルに好き嫌いはあるでしょうが、いろいろな本の楽しみ方を知っていると人生は2倍豊かになりますね。
話の聴き方も同じです。
・・・
さて、今日の夜は、息子はどの本を選ぶでしょうか???
楽しみです!
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